チーム医療とインフォームドコンセント

サマリー

確立された最新の医療情報を生涯教育の一環として勉強しておくことはもちろんであるが、PC医自身が患者および家族にそれらの医療情報を説明できなければ、各分野における相談できる相手を持っておくことが重要である。

自分が関与していた患者が病院に入院となった場合、高度な専門診療内容についてはともかく、終末期と考えられた時には、患者の死生観や背景を熟知しているPC医は、病院における主治医、看護婦らに対して治療方針について提言していく必要がある。

 

PC医の中には、昔の知識のみを元にした医療を行い、発達した新しい医療の恩恵に被れる患者にその機会を与えない、つまり適切に高度機能病院へ紹介しない医師が少なからず存在する。

一方、我々のような高度機能病院の医師は、カンファランスでは医学判断のみを論じることが多い。医師自身がそれぞれの死生観を有しないためか、患者が死亡することを医療の敗北ととるためか、死にいく人間に対しては医療チームの一員である看護婦側と論議することがきわめて少ない。

この論文は、最近私が経験した上記のような2症例を提示して、高機能病院の勤務医からみて、PC医が関与すべきチーム医療とインフォームドコンセントについて述べたい。

 

症例1 56歳 男性

幼少時から心疾患を指摘され、医師からは長く生きられないと説明をうけており、身の回りの生活のみを行っていた。3年前より軽度の労作にても呼吸困難が生じるようになり、近医でフォローされていたが心精査を勧められたこともなく、患者自身も仕方がないと納得し、放置していた。今回、嗄声を主訴として、本院の耳鼻科を受診した際、喉頭ポリープが発見され、手術前に心拡大がみられるということで、術前の心臓評価として循環器内科を紹介された。痩せと末梢のチアノーゼを認め、胸部レ線、心エコー図から、逆シャント、三尖弁閉鎖不全症を合併している大きな心房中隔欠損症と診断し、喉頭ポリープの手術は後回しにして、心臓手術を行った。術後に、体重も増加し運動能力は著明に改善した。本例はPC医が長年フォローしていたにもかかわらず、本院の耳鼻科を受診してなかったら、心臓手術の恩恵を受けられなかった例と考えられる。

 

症例2 71歳 男性 妻と2人暮らし

58歳時に脳梗塞による右片麻痺をきたし、69歳より狭心症を発症し、クレアチンが1.8mg/dlの腎機能障害があったが、杖歩行が可能であった。今回、原因不明の左胸水貯溜、全身倦怠感を主訴として入院した。胸腔ドレーナージおよび、抗生剤投与により症状は一時的に改善した。しかし、以後も左右の胸水が出現し、対症的に治療していたが、徐々に食欲が低下し、悪心・嘔吐から誤嚥性肺炎を繰り返した。全身状態はどんどん悪化し、寝たきり状態となった。栄養状態改善の目的で中心静脈栄養を開始したが、あまり改善せず、貧血が進行し、クレアチンは3.4mg/dlとなり、以前にもまして理解力の低下と片麻痺は進んでいった。

入院が2カ月におよび、治療方針およびゴールを明確にするため、看護婦サイドは主治医と話し合った。看護婦側はこの患者に対して終末期状態と認識したが、主治医はこの患者が死に行くことを認めたくないためか医学的な面のみを主張し、両者の間で期待するものは大きく異なった。

1カ月後、再度主治医と看護婦サイドが話し合われ、今回は終末期状態との判断で一致した。しかし、それにも関わらず、主治医は輸血、喀痰培養、胸部レ線を繰り返えし行い、看護婦サイドは、目標のない医療に対して一生懸命行うことに消耗していった。3週間後、早朝に患者がベッド上で死亡しているのが発見されその後に妻が駆けつけた。3カ月におよび入院していたにもかかわらず、妻は死に目にはあえなかった。

 

コメント

医療情報が氾濫している現在、医師は患者に正確な情報を提供し、最終的には患者自身が治療法を選択し、その責任をシェアするのがインフォームドコンセントである。治療選択に関して、一般的な死亡率は何%か、そして実際に行われるその病院での死亡率は、等の正確な情報をぬきにしてインフォームドコンセントは語れない。一方、患者サイドから見ると、悪い知らせであっても、全ての情報を受け入れる、つまり告知を拒否しないということが正しいインフォームドコンセントを形成する条件となる。

PC医にとっては、少なくとも保健医療で認められていることに対して、生涯教育の一環として学習して、患者に還元できるものは還元する姿勢が大切である。加えて、自分の知らない領域について患者に説明しなければいけない時には、適切に相談できる相手またはメイリングリストをきちんと確保しておく必要がある。

症例2については、全身の著明な動脈硬化症による進行性の腎不全、多発性脳梗塞が生じており、確実にこの患者の前には死があるにもかかわらず、主治医は認めたくない状態であったと考えられる。そのような状態では、最も患者に接する看護婦達のゴールは見えてこない。

集中治療を開始したが、改善が望めない状態になることも多いICUでは、看護婦は、チーム医療の一旦として、患者をケアしているのにも関わらず、終末状態では主治医の考え方がわからず、憔悴することが多々ある(1)。医師になぜこの治療をするのかと問えば、医師は怒り出すことが多く議論にならない。

医療には、医学判断以外に、患者の好み、家族の支え、治療後における生活の質の変化といった、臨床倫理について熟知する必要がある(2)。医師は、卒前にこのような教育を受け、卒後の実地研修により、いろいろな経験をする事により自分なりの臨床倫理的な考え方を身につけなければいけない。しかし、残念ながら日本では、臨床倫理のコースを持つ大学病院は少なく、多くの専門病院ではそのような論議はされず、医学的な治療のみの議論となることが多い。多くの医師は、医学的な判断のみで次々と検査を進めていく。本院でも主治医である研修医に患者の家族構成を聞いても知らないことが多く、患者の人生観を鑑みた治療が行われているようには見えない。

生命には限界があり、人間にはいつかはお迎えがくる。その日をどのように迎えたいと考えるかを患者本人と論議することは日本の風土として馴染まないところもあるが、タブーではないと思う。患者の意志をいつでも明確にしておけばその場になって周りの人間があわてないと思われる。

そのような議論を患者およびその家族にPC医が行っていないことが多いためか、近医で長期フォローされていた痴呆のある寝たきりの高齢の患者が救急車で我々の病院へ転送されることがある。そこで、家族にいままでの臨床経過を聞くと「死が近い」とはPC医より説明されておらず、仕方なく濃厚医療をすることも多い。このような時、患者と長いつきあいのあるPC医が、もし病院の医療チームと患者家族の間にはいり、どのような治療選択をするかを提言することができればPC医の役割は大きいと思われる。

PC医が毎年、自分の死に対する患者および家族の意志を確認することも大切である。「人生終わりよければ全て良し」ではないが、家庭環境、家の中での患者の位置を熟知しているPC医が、そのお手伝いをすることにより、患者も望む最後となり、ひいては無駄な医療費を使わないようになると思われる。

 

文献

1. 心臓病学会 1999 チーム医療のシンポジウム

2. 白浜雅司 臨床倫理 JIM 2000